| 11月13日(火) 東尾修の「ひとりごと」 |
つい2、3週間前に札幌ドームで会ってお茶を飲みながら明るく話をしたというのに、まさか急にこんなことになろうとは…。
稲尾(和久)さんに初めて会ったのはドラフト入団で初めて福岡に来た時。入団発表後、スカウトが俺を稲尾さんの自宅に連れていってくれてね。球団は稲尾さんのような選手になって欲しいという思いから連れていったらしいんだけど、たくさんのトロフィーに囲まれた応接間に通され、緊張しながら待っていたら、当時32、33才の稲尾さんが着物姿(!)で登場してね。オーラが凄かった!って感想よりは、とにかくデカい!って思う方が強かったんだ。自分が座っていたからというのもあるんだろうけど、“デカいおっさん”が正直なところ第一印象だったよ(笑)。自宅を訪れる前、4才年上の池永(正明)さんに会い、“兄貴”という感覚があったから、13才差の稲尾さんは“おじさん”としか思えなかったんだろうね。あとから聞いた話だけど、それまで球団が何人もの選手を同じように稲尾さん宅に連れていったなかで、稲尾さんの奥様が、何故か俺の時だけ「あの子は将来可能性がある」と断言してくれていたらしいんだ。
稲尾さんとは1年だけ現役が一緒だった。初めて参加するキャンプでは“神様、仏様、稲尾様”といわれた時の姿が見られることを楽しみにしていたけれど、晩年で力がだいぶ落ちてきていて、生で見ることはできなかった。とはいえ、肩を壊し何とか治そうと赤くなるまでお灸を肩にすえていた池永さんや、同じく肩を痛め投げれずに苦しむ稲尾さんを目の当たりにすることで、プロの世界は凄いって実感した印象が強く残っている。
シーズンに入り、一軍と二軍を行ったり来たりする中、二軍遠征で稲尾さんと一緒にボロボロの旅館に泊まったりすることが多々あった。13才上の偉大な存在である稲尾さんを身近に感じることができたのは、そういう時間を共有できたからこそだと思う。稲尾さんがバリバリのエースだった頃に会っていたら、近づくこともできなかったかも知れないだけに、オレにとっては幸運なことだったのかも知れない。
そうそう、もうひとつ、稲尾さんと俺を近くしてくれたエピソード。それは俺が初先発した時のこと。将来を期待される選手にとって初勝利はその先どう成長するか大きく道を分ける重要な要素なんだけど、その大事な初勝利を7回2-1、ランナー1、2塁からリリーフした稲尾さんが打たれて消したんだよ! これにはさすがの稲尾さんも申し訳ないって思って、それ以来オレには強く言えなくなったんだ。年を重ねてからも酒の席になると、必ずといってもいいほどしてその話題を持ち出しては稲尾さんをイジめさせてもらったよ(笑)。なんせ月収3万という時代に、初勝利を逃したことで150万円ダウンしたんだからね(苦笑)
稲尾さんのスライダー、後の河村(英文)さんのシュート。オレの原点はすべてここにある。この二人の存在なくして、今のオレはないといっても過言ではない。1年目はプロの世界を目の当たりにし、2年目は黒い霧があってガムシャラに投げ続ける1年になっ た。そこから得たたくさんの経験を3年目、4年目と形にしていくなかで、自分の球では空振りを取れるほどの球威はなく、できてファール止まり、まっすぐが勝負球にならない壁を乗り切る術がスライダーとシュートにあったんだ。のちに稲尾さんがロッテの監督に就任して、よ〜くベンチから野次られた覚えがあるよ。でもそれは、愛情のこもった野次でね。立派に成長したことを喜んでくれている温かい野次だったよ。
名球会に入ってからも時間を共にすることが本当に多かった。オーストラリアのケアンズでゴルフをした時も、オレがゴルフで稲尾さんに勝ったんで、その勝った分で小型機をチャーターしてカジノに行き一泊して、翌朝慌てて帰って来たなんてこともあったなぁ。確か、まだ現役の時だったと思うよ。
野球界に足を踏み入れた時からの長く親しい付き合い。心よりご冥福をお祈りしております。
※稲尾 和久(いなお かずひさ、1937 - 2007)西鉄ライオンズ
河村 英文(かわむら ひでふみ、1933 - 2005)西鉄ライオンズ/広島カープ


